毒母育ちの私が家族のしがらみを棄てたあと

母に結婚生活を奪われても、文句ひとつ言わず母の面倒を見ることが自分に課せられた生まれてきた意味、と信じ人生すべてあきらめて生きてきました。自分の人生、自分のために生きてよかったのだと気づいてからの日々を綴っています。

絶賛増殖中、茅田砂胡さんを再読!

「最近読んでるもの」

退職してから長年の積読本を読んで捨てる、お気に入りだった本を再読して、捨てるか否かを決めています。

夏ごろまでは順調に蔵書を減らしていたのですが、茅田砂胡さん作品に手を出し始めたとたん、捨てるものがなくなりました。

 

茅田砂胡さんの作品のうち、作者曰くの金銀黒と赤黒怪獣夫婦が登場する作品が特に好きです。

リィとルウ、シェラの信頼関係、ケリーとジャスミン、ダイアナの関係を羨ましく思いながら読んでいます。

 

今は、『デルフィニア戦記』『スカーレット・ウィザード』『暁の天使たち』を読み終わって『クラッシュ・ブレイズ』の途中。

この後、『トゥルークの海賊』『天使たちの課外活動』等を再読する予定です。

 

再読して、あんなに夢中になって読んだ本で、印象的なシーンとかセリフはしっかり覚えているのに、ストーリーを見事に覚えていなかったことを情けなく思いました。

先がどうなるかドキドキしながら読んでいるので、二度おいしいと言えるかもしれませんが。

それに、最近の作品はコミカルだけどはじめは相当シリアスだったんだな、合間に軽妙な漫才みたいな会話が入っているから、無茶苦茶暗い話をそうと感じさせなかったんだと気づきました。

 

当然のことながら、まだまだ捨てられない!どころかシリーズで抜けているのに気づいて、古本で買ってしまいました。

クラッシュ・ブレイズ』あたりまでは、図書館で借りて一度読んでから買っていたから、抜けが今になって見つかったという次第です。

今は新刊でると即買い。シリーズが抜ける危険はないですが、再読で処分するどころか結局増えてます。

 

まだまだ続く茅田ワールドに、どっぷりはまっています。

 

一度は行きたかった明治村、でもきっと二度目はない

明治村に行ってきました

名古屋には何度も行く機会があったのですが、名古屋駅から片道約1時間、廻るのに5~6時間はかかるとの情報に行きたいと思いながらも躊躇していた明治村

ようやく行くことができました。

犬山駅からバスに乗って、しばらくするとバスはどんどん山の中に入って行きます。

25分後明治村到着。

 

 

正門から奥に1丁目から5丁目まで。効率よく見学するためまずは村営バスで5丁目へ。

マップ片手に見たい建物を探して歩きましたが、広い広い。

そして、迷路のようにわかりにくい。自分がいる場所を建物番号で確認してもどっちに行けばいいのか何度も迷いました。

 

村内では謎解きイベントを開催していたらしく、わいわい言いながら答えを探していました。小学生や高校生のグループもあちこちで見かけました。

たまたま呼び込みに出くわして、呉服屋の建物ガイドに参加しました。

受付で偶然貰った呉服屋のカード

舞台の下に続く奈落の通路

桟敷席が斜めに作ってあるとか升席などの解説のあと、奈落の底まで案内してもらえて、すごくいい体験でした。夏は暑く冬はとても寒かったそうです。

 

金沢監獄中央看守所で撮った写真

こちらは金沢監獄中央看守所。写真に撮るとそのすごさが実際に見た以上に現れたように思います。

実際に移転されたのは、六角形だったか八角形に監房が伸びているうちの1棟だけ。

それをこんな風に廊下で繋がっていました、と説明する写真が壁に貼ってあったんです。この写真は、その写真を撮ったもので、実は床(木の部分)だけが本物。

はじめに建物の中に入って、ぐるりと回りを見回した際は、本当に監房が奥にあるのだと思いました。二度見して写真と気づき、その発想に感心いたしました。

私の下手な写真で、そのすごさが伝わるといいのですが。

この2か所は、明治村に行ったら必見と言いたいです。

 

1区画を1時間かけて回り、途中昼食を取り、5時間後予定通り1丁目まで全区画を巡ってきました。

正門に辿り着いた時には、一気に疲れが出た感じでもう一歩も歩きたくないと思いました。明治村の中だけで2万歩近く歩いたと思います。

 

疲れたけど、行けてとてもよかったです。

失われつつある明治時代の建築物を保存することを考え、実行した建築家谷口吉郎さんと名古屋鉄道元会長の土川元夫さんに感謝。

二人は四高同窓生だそうで、結局こういう人のつながりが偉業に繋がるんですね。

家の借り手がいない

母が引っ越した後、空気の入れ替えをするためとはいえ、家に入るのが苦痛でなりません。

物はすべてなくなったのに。

母がいなくなった家に入るたび、心が削られる気がします。

辛い思いでしかない場所だからか、心も体も拒絶反応をおこしているようです。

 

人が住まなくなったせいか、次から次に起こるトラブルにも疲れてしまいました。

もう嫌だと思って、賃貸に出そうと不動産屋さんに相談し、現状のまま丸投げして早3か月。見学に来たのはたった一人でした。

 

誰でもいいからそこに住んで、母の気配を消してくれればそれでいいんです。

それだけで私はきっと息ができるようになる。

自分の人生の主役に母を据えていた

人生の指南書とかカウンセリング関係の本とか、なぜ「自分の人生を自分で決められる」ことを前提に書かれているのだろうと常々不思議に思っていました。

自分で自分の人生を選ぶことができないからこそ苦しんでしまう人は、置き去りにされるしかないのでしょうか。

 

追い詰められた人は、選択の余地がないと思い込んでしまうのです。

自分の人生の主役になれない。それがどれだけいびつなことであるか気づけない、気づいたとしてもその状況を受け入れるしかない、と。

ほとんどの人にとっては当たり前のことなんでしょうが、自分で進む道を決めていいのだと、どんな状況であっても、どんな人にでも、自分で選ぶ権利があるのだという考え自体、何十年もかけて、60直前でようやく私が手に入れることができたことです。

 

親は自分の考えを子どもに押し付ける。子どもの意思を聞こうともしない。

そんな親ほど、子どもが血反吐を吐くほど苦しんでいることには気づきません。

おそらくは、子どもの姿など見ていないからです。自分が希望するイメージを子どもに重ねて、見たいものだけを見ているのではないでしょうか。

 

私の母は、子どもの時私の嫌いなものを勝手に決めていましたが、本当に嫌いなもの、食べられないものは、私が30を過ぎても知りませんでした。

母も姉も、私が自分の気持ちを口にしないことを知っていた。

知っていて知らんふりをして、自分たちの思い通りにしていたと知った時の気持ちをどう表現すればいいかわかりません。

虚しさ、悲しみ、情けなさ…

親に愛されたい、認めてもらいたい。

そんな気持ち、期待を、もっと早くに捨ててしまえば、それだけ早く楽になれたのだと思うだけで落ち込んでしまいます。

 

若いうちに親を捨てても、物理的に離れていれば高齢になった親との和解も可能かもしれません。

「あの女は私を捨てた女だ。もう娘だと思わない」と私に言い放ち、姉のことを非難していた母と10代で母を見切り距離をおいてきた姉。

その二人が今は仲良く?一緒に住んでいます。

 

何でも自分で決めて、好きなことをして生きてきた姉の生き方の方が正解なのかもしれません。

一度は行ってみたかった東洋文庫ミュージアム

図書館で緑色の東洋文庫を見たことはあっても、一度も読んだことはなかったのですがそのもととなった圧巻の本棚をじかに見てみたかったので、一度は行ってみたかった東洋文庫ミュージアムに行ってきました。

東洋文庫の本棚の一部

これぞまさしく神が与えたもうたこの世の楽園!

とローゼマインちゃんなら言いそうな、天井から床まで続く本棚にテンション爆上がりでした。

 

企画展は「東洋の医・健・美」と東洋医学についてのもので、こちらも大変興味深く拝見していたのですが。

 

展示室から次の展示室へ行く途中の廊下がガラス張りで、まるで何もないところに足を踏み入れる風になっている箇所があり、極度の高所恐怖症の私は、足がすくんで前に進むことができませんでした。

怖ければ下を見ないで歩けばいいと、頭ではわかっているのですが石の柱がどこまでも下に伸びているように見え、体がすくんで動きませんでした。大股でそこを踏まずに進むには幅がありすぎました。

 

しばらく立ち止まって、どうやって進むかを考え、たどり着いた答えは、周りに誰もいないのを幸いに、ガラス面を飛び越えて進む、でした。もし誰か見ていたとしら、いい年して変なやつと思われたことでしょう。

何とか次の展示室にたどり着きましたが、展示を見終わった後、逆側からも回れたことが分かった時には、脱力しました。私の苦悩は何だったんだ(泣)

 

本棚に廊下と、強烈な印象の東洋文庫ミュージアム

こじんまりとしているけれど、また機会があったら立ち寄りたいミュージアムでした。

サグラダファミリア展で心に残ったこと

ガウディの名前を知ったのは、着工から100年経っても完成しないサグラダファミリアという教会があることを知った時でした。

完成まで300年はかかると言われていたけれど、ITの発達で完成がいっきに早まり、2026年完成予定と話題になっていました。

 

完成していないけど、公開していて観光客が押し寄せているってどういうこと?

教会の写真は、前方と後方で全然建て方が違っていて、塔がすごく目立つやけに派手派手しいものでした。

 

完成目前になって、こういう展覧会をやるのは資金集めだろうな、コロナで観光客も減っただろうし、などと思いつつ、どんな展覧会なのか興味が湧きました。

 

前売り券を買った時には、「日時指定なし」だったのに、会期途中で日時指定を導入し、開館時間も延長したことからすごい人なんだろうと覚悟していきましたが、予想以上でした。

それでも展示品の前でそう待つこともなく見ることができたのは、美術品と違って展示品の前に張り付いている人が少なかったことと大きい展示品が多かったからでしょうか。

 

一番印象に残ったのは、ガウディの死に関すること。

交通事故とは知っていたのですが、なんとつまずいて電車にひかれたそうです。

しかも病院に運ぼうとしたらタクシー3台拒否されたと書かれていました。

もし、救急車があったら助かっていたのでしょうか。

 

市が大規模の葬儀を希望するも、遺族の希望で質素な葬儀になったと書かれていました。

葬列のあとをバルセロナの市民がずっとついていく写真が、いかにガウディが愛されていたかを語っていました。

怪我をしたガウディを病院に運ぶことを拒否した運転手たちは、どんな思いで葬儀の報道を聞いていたのでしょう。

もしかしたら、この葬列に参加していたかもしれない、などと想像してしまうほど物悲しくも感動する写真でした。

 

30前に「私の葬式は誰が出してくれるのだろう」と毎晩のように泣いていた私は、今はもう誰も葬式をだしてくれないことを受け入れてしまった。

その分、人々に慕われたことを如実に表すこの写真に心惹かるものがありました。

猛暑の東京で寒さに震えていた

8月末に東京へ出かけてきました。

久しぶりの展覧会。目当ては、サグラダファミリア展とメキシコ展。

新幹線を降りたとたん、むわっと熱い空気が体にまといつきました。

しかし構内は涼しく、暑さを感じたのは一瞬だけでした。

 

最初の目的地、出光美術館に着いた時は、短い時間しか歩かなかったこともあり、涼しいなと感じた程度でしたが、会場を進むにつれ寒さを感じはじめ、出るころには体が冷え切っておりました。あったかいお茶サービスがどんなに嬉しかったことか。

お茶を飲みながら少し休憩して、皇居を挟んだ対極に位置するサグラダファミリア展の国立近代美術館を目指しました。

 

大手町駅への行き方を聞くと、「15分は歩きますよ」と心配されました。

東京の人は歩いて移動しないんだろうな、と思いながら、私は大手町駅を通過点にそのまま歩いて移動するつもりでした。

教えてもらった、帝国劇場地下からトコトコと大手町駅を目指すうち、冷え切った体も十分温まり、近代美術館に一番近い地下鉄出口から皇居のお堀に沿って炎天下を歩きだすと、いっきに汗が噴き出てきました。

汗が流れ落ちるまま美術館に入ると、涼しい。汗がひいていきます。

そしてまた、会場を進むうちに寒さに震えておりました。

トーハクのメキシコ展も同じように、着くまでは暑いけれど会場は寒い…

どこに行っても体が冷え切って、外が暑かった記憶が吹き飛びました。

今回の旅の一番の思いでは「8月の東京は、寒い!」

これにつきました。