毒母育ちの私が家族のしがらみを棄てたあと

母に結婚生活を奪われても、文句ひとつ言わず母の面倒を見ることが自分に課せられた生まれてきた意味、と信じ人生すべてあきらめて生きてきました。自分の人生、自分のために生きてよかったのだと気づいてからの日々を綴っています。

横浜は雨模様のはずが一時だけ快晴でした

二日目は横浜美術館にマリーアントワネット展を見に出かけました。

曇り空でしたが、横浜美術館は駅からほぼ建物の中を通っていけるので、いつ雨が降っても大丈夫。雨の心配はしなくてよかったです。

しかし、美術館に着いたら、入場待ちの長蛇の列!がすごかった。

混雑しているとは聞いていましたがこれほど長い列は、トーハクでもそうはないと驚いて最後尾につきました。

入るまで30分は待つかな、と思っていたのですが入場が始まると意外とスムーズにどんどんと会場に入っていきます。

会場内も展示品もドレスとか食器とか場所を取るものが多かったので、人が多くても案外楽に鑑賞する事ができました。

私の世代でマリーアントワネットと言えば、これ(笑)

会場を出るとまだお昼前。しかも太陽がさんさんと輝いていました。

貴重な晴れ間に建物の中にいるのがもったいなく、時間もあるしせっかくなので少し足を延ばして、地図を頼りに橋を渡ってカップヌードルミュージアムに寄り道することにしました。

とことこ歩くだけでも汗が流れるくらい暑いかったです。

 

中は小学生、中学生の団体がすごくたくさんいました。

3階に上がると、写真で見るよりたくさん並んだテーブルが全部埋まっていて、中学生くらいの子がオリジナルカップヌードル作っていました。

チケット買うとき聞かれたけど、申し込まなくてよかった。学生のパワーの中にはもう入れません。

 

少しお腹が空いてきたので、4階のワールド麺ロードでおひるごはん。

食後のデザートにカップヌードルのソフトクリームを食べてみました。

カップヌードルのソフトクリームを上からパシャリ


カップヌードルの具材をソフトクリームにトッピング。微妙。というかソフトクリームはやっぱり甘いのが好みです。

 

なんかすべてが非日常という感じで、展示を見るだけでしたが大人でも十分楽しめる施設でした。

 

三日目は科学未来館で南極展。南極のブリザードを体験してきました。

クイズ形式で南極のオーロラとかいろいろ科学的な説明展示。

ペンギンの体重の測り方とか映像のペンギンの数を数えるとか、体験も楽しかったです。

南極飯 手前にこんもりあるキャベツの千切りが最高のごちそうですって

南極で一番人気の料理がキャベツの千切りって、いくら新鮮野菜が1年に1度しか食べられないとはいえちょっとさみしい。

展示の最後に、そんな過酷な生活されている人の写真とコメントが貼ってあったのですが、皆さん意外に若くてびっくりしました。

確かに若い方が南極の過酷な環境への耐性は強そうだけど。

皆さん、大変なお仕事頑張ってくださいと思わず合掌、でした。

東京初日赤阪迎賓館を見学しました

初日に向かったのは、赤阪の迎賓館。ここは別館見学のみ日時指定。

ホテルに荷物を預けたら、中央線で四谷まで。予約した後、予約時間の30分前までに受付を済ませること、と注意事項に気づいて十分ゆとりをもって申し込んだ時間ではありますが、万一遅れたらどうしようとドキドキしながら電車に乗っておりました。

ところが予想以上に早く着いたので、予約時間に間に合うどころが1時間以上の余裕がありました。

 

そこで、雨が降らないうちにまずはお庭を見学することにしました。

庭は噴水広場のみの見学で中には入れませんでした。

どんなお庭かわからなくて残念に思っていましたが、別館見学後に本館へと戻る道がお庭の中の道でした。そう広くはありませんでしたが趣のあるお庭でした。

噴水の彫刻が素晴らしかったです

本館は、逆戻り禁止の見学コース。

お部屋に入ると、ボランティアさんが見学者のグループに部屋の説明をしているのが聞こえてきました。

外国の賓客を迎えるときは、調度品やいすをすべて撤去して机やいす等賓客用にセッティングするそう。毎回大変ですね。

 

各国からの賓客をお迎えした時の写真が各所に飾ってあったのですが、総理大臣が対応したものが多かったです。迎賓館って皇族が使うものだと思っていましたが政府のものだったのですね。せっかくだったらすぐ変わる総理大臣より天皇さまや上皇さまのお写真をもっと見たかったです。

 

目が悪くなったので、天井画や壁画がはっきりとは見えませんでした。

前に買った単眼鏡を持ってくるべきだったと思いましたが後の祭り!なのでした。

本館

本館見学を終えたところで別館見学の集合時間が近付いていたので、休憩を兼ねて集合場所にいくと、すでに何人もの方が集まっていました。

事前説明を聞き、プレートを首にかけて見学スタートです。

通常しまっている扉が私たちのために開けられ、別館の敷地内に入りました。

 

こちらは本館とは打って変わって純和風。

総塗り壁でちょっとした傷でも全面塗り替えになるので壁には触らないで、バッグ等当てるないでと注意を受けたのち見学開始。

別館は落ち着いた雰囲気が漂い、広間は高級な旅館といった風情。

 

茶室には、さりげなく人間国宝の作品が置かれていました。

たまたま私の知っている名前でしたが畳の上であるべき場所においてあるだけ。

作者名がそばに書かれているだけなのです。

あまりのさりげなさに、ひぇ~となりました。

ほかの見学者は気づかなかったのか興味がなかったのか、足を止めて作品を見ている方はいませんでした。

 

茶室に限らずどこも床から天井まで様々な工夫がされているそうで、説明を聞きながらどのお部屋にも感銘を受けました。

来てよかった。

 

お庭を通って本館前で解散。

ネームプレートを返して、そのまま帰途につこうとしたところで雨が落ちてきました。

来たときは太陽が出ていたのに、帰りは雨模様。

なんとか傘を差さずに駅にたどり着けましたが、電車の中から雨が降っているのが見えました。

久しぶりの東京は連日雨だった

ダ・ヴィンチの「美しきフェロニエール」、東京都美術館の大英博物館百花繚乱、横浜のマリーアントワネットスタイルと話題の展覧会が集中している東京に行ってきました。

だんだん体力が追いつかなくて、現役時代のように展覧会3つはしご!なんてまねが難しくなってきたので、少し余裕を持った日程で出かけたのですが、天気予報はまさかの全日雨。

 

おおよそ午前中は晴れ。午後3時過ぎとか夕方から雨という予報が多く、地下にもぐれない会場は午前中に、新国立のように地下鉄直結は午後にと、なるべく雨を避けるように行動しました。

時々は太陽を見ることもできたし、降っても小雨程度で傘を差しても濡れるほどの雨には1度しかあいませんでした。雨予報の中では上手に予定をこなせたと思います。

しかし、5月の新潟も7月の山形も初日は雨。今年は雨模様の中での旅行ばかりでした。

たたられているのか、日本列島今年は雨ばかりだからなのか。

旅行中の雨って本当に気分が下がります。

失明するかもしれないと恐怖におののいていた時に考えていたこと

年末年始にとんでもなく目の病気が悪化したときは、文字が読めなくなるかもしれないと落ち込んで精神的にどん底だったのに、まともに見えない目を無理に使って本を読み、そのせいか体力も相当削られておりました。

 

注射を打つまでの3週間、毎晩8時過ぎには疲れはて体力の限界を感じ布団に入る生活でした。

横になるとすぐバタンキューという感じでした。そして、夜中に必ず目が覚めました。

まあ、2時か3時に目が覚めても6~7時間寝ていた計算になるのですから、睡眠時間としては十分な時間。

目が覚めるのは当然と言えば当然ですが、起きて活動するには早すぎる時間です。

体力を回復させるためそのまま睡眠時間10時間を確保したくて、再度寝ようとしたのですが今度はなかなか眠れません。

仕方なく布団の中で1時間でも2時間でも、眠れるまでいろいろなことを考えていました。

 

いちばん頭に浮かんできたのは、やっぱり元夫とのこと。

結婚当時のことを思い出したり、後悔したり、罪悪感で苦しくなったり、といった負のループが頭に浮かぶことがほぼなくなってきていたのに、また考えるようになってしまいました。

もう二度と会えるはずもないのに、一度でいいから二人だけで話しがしたかったという思いにまたぞろとらわれてしまいました。

あの頃を思い出しては、どうすればよかったのかを考えたり、自分を卑下したり、責めたり、罪悪感で苦しくなっては泣いて、泣きつかれていつの間にか眠ってしまうのでした。

 

そして目が覚めたら今度は目の状態が気になって、どのくらい目の中の影があるかとか何が歪んで見えるかとか、そんなことばかり気にしていました。

注射を打って目の調子が楽になって、体にも負担がかからなくなったのか布団に入る時間が遅くなるにつれ、夜中に目が覚める頻度が少なくなり、畢竟布団の中で考える時間も少なくなっていきました。

 

そうしてある日、いつも料理作っているときに頭の中でループしていた「身の程知らずの夢を見て申し訳ありません」という言葉で、夫への罪悪感を繰り返し心の中で詫びることをやめていることに気づきました。

長い間、彼に対して抱えていた罪悪感が消えていました。逆になぜあんなにも罪悪感を抱いていたのだろう、と不思議に感じるようになりました。

 

そうすると、あれほど罪悪感を抱いたきっかけは何だっただろうか、とこれまでとらわれていた事象以外のことを思い出してみました。

夫だった人が私を避けているように感じること。

話しかけても返ってくるのは一言だけ、いつも拒絶されているように感じたこと。

結婚したら一緒にいられると思っていた私は、二人で過ごそうとしないのは、彼がそれを望んでいないからだと受け止めていました。

どんなに思い出しても、彼と目が合ったことなど一度もありませんでした。

 

でも彼が私にそんな態度を取るのも、母としか話をしないこともすべては私が悪いせいだと自分を責め、その状態を受け入れていました。

家庭内でのヒエラルキーの一番下に位置づけされているの自覚していたし、そんな扱いを当然のこととして受け入れていたのでした。

もし彼がどんなに怒っていたとしてもそれは理不尽な扱いだし、今ならハラスメントと呼ばれるような態度だということにようやく気付いたのです。

 

30分でもいいから二人で過ごしたい。

スーパーでもいいから二人で出かけたい。

なんとか二人で過ごせないだろうか。

 

ずっと願い続けたこの思いは今でも心に強く刻まれているし、夫婦の問題は夫婦で話し合いたかったという思いも引きずっているけれど、離婚してすでに40年が過ぎた今、元夫だった人をもう愛していないことに気づいてしまいました。

お墓参りで姉に遭遇しました 墓じまいは私の責務?

今年もいとことお墓参りに行きました。

長時間の運転で疲れたから少し休んでから行く、と連絡があり予定より30分遅れで出発。まずはいとこの家のお墓に向かいました。

これが姉と遭遇した原因。予定通りに行動していれば、今年もいとこと久しぶりに会って楽しく過ごす1日になったのです。

 

いつもより混雑していて少し離れたところで車を降り、お墓に向かって歩くこと10歩。

お墓の前に姉と姪たちがいるのに気づきました。

お墓までの距離は残り約2m。

低い洋風の墓が並ぶ墓地公園では、方向転換もできません。

 

しかも、私が姉を認識したとほぼ同時に姉も私に気づいたらしく、でかい声で呼びかけられました。

どうにも逃げようがないので、そのまま歩き続けるしかありませんでした。

姉は私と一緒にいるのが誰なのか不審げな様子。

いとこの名を告げると、驚いた様子でしたが、親しげにあいさつを交わしはじめました。私はその間に無言で花、線香、ロウソクをセット。

 

ひととおりいとことのあいさつを終えると、姉は私に向かって「墓じまい、どうするの?」

姉は母を引き取ったとき、私に縁切り宣言したことは忘れているのでしょうか。だから転居先の住所を教える必要はないと言われたんですが?

母と一緒に家の責務も姉に引き継いだつもりでしたが、墓じまいは私の責務?

 

続けて「いつどうなるかわからないのに、一度もケアハウスに母を訪ねていない。親不孝者」と私を責めました。

「手紙には、ケアハウスに入れたということと私を緊急連絡先にしたことしか書いてなかったけど」と言い返すとケアハウスの名前も住所も書いたと主張しました。

姉と私の険悪な雰囲気を察したのか、姪たちは音もなく私たちから離れていきました。

 

おまけに相変わらず、私が携帯電話を着信拒否にしていると責める。

数年前に会ったとき着信拒否リストまで見せたのに、信じなかったらしい。

そもそも姉の番号を知らないから拒否のしようがないと何度も言っているのに、自分の番号は絶対教えようとしません。いとこには愛想よく番号伝えていたけど。

 

しまいには目の前で私の携帯にかけて着信拒否の証拠を見せつけてきました。

しかしそこに表示されているのは、ずいぶん前に使っていた番号。

今その番号使っている人、姉のけんか腰の留守電聞けば、そりゃあ着信拒否するよね。

ようやく番号が違うことを理解した姉は、「じゃあ新しい番号を教えなさい。ほら、何番!言いなさい!」と繰り返す。

自分の思い込みで私を責め続けたことを詫びようという発想はないらしい。

しかも、あれだけ何度も番号を知らないと言い続けたのに、自分の番号を知らないはずがないと思い込んでいる。姉は、こういう理不尽なことを当然のように言う人です。

あとになって私は、姉が私をうそつきと決めつけていたんだなあ、と思い至りました。

 

上から目線で番号を言えと言い続ける姉を完全無視してお参り準備を続けていたら、「その態度は何、私はあんたに何もしていないでしょ」とのたまいました。

確かに暴力振るわれたのは、幼い時だけ。

ただ私を馬鹿にし、召使いのように扱っていただけ。言葉で傷つけていただけ。

骨の髄まで逆らったらいけないと思い込まされていただけ。

落ち込んでいるとき慰めてくれるとか助けてくれるとか、守ってくれるとかそういうことを一切してくれたことはない。そういう意味では何もしていないは正しい。

「あんたなんかいなければよかった」「邪魔だった」といったことも、母との暮らしで精神的にギリギリの状態でうつ病になっていたと話した時でさえ、姉は私を気遣わなかった。「そんなこと言われたら笑うしかない」と言い放っただけでした。

 

どれだけ、姉の言葉にメンタルを削られたか。切々と訴えた時でさえ、被害妄想だと切り捨ていつまでも昔のことを言うなと責められました。

私の言葉は、母や姉には通じない。もう何十年も前に学習していたのに、私がどんな思いで生きてきたかを少しでもわかってほしいと、かけらほどの希望を持って話したことさえ非難したことも姉は覚えていないらしい。

最後の捨て台詞は母と同じ「そんな過去のことをいまさら言ってどうなる」

水に流すには辛すぎる過去だということすら、理解してはもらえないのでした。

 

今考えれば、妹をたれパイ、ブス、と呼びかける姉ってほかにいます?

姉が私にしたことって今の基準で言えば立派なモラハラじゃないのかな。

 

言いたいことを言うと、姉は私たちから離れていきました。

離れていた姪たちが姉に合流します。

もう姪たちが私に笑いかけてくれることはないでしょう。あの子たちの目に私はどう映っているのでしょうか。あの子たちとの縁が切れたことは寂しく感じます。

 

しかしあの子たちも小さい時しか会っていないから覚えていないのは仕方がないとはいえ、姉との会話から親戚だということはわかったはずなのに、いとこに対しても挨拶をしないのはちょっと大人としてどうなんだろうか。

せめて軽く会釈くらいするの常識を持った大人になっていてほしかった。

 

3人が帰った後、ようやく私といとこはお墓にお参りをしました。

車に戻ると頭が痛くてしんどくなってきましたがいとこに心配かけたくなかったので、何事もなかったようにふるまい、我が家のお墓参りに向かいました。

姉たちはすでにお墓参りを終えていたらしく、今度はありがたいことに遭遇しませんでした。

 

もう何年もこうしてお墓参りをしてきたのに、姉たちに遭遇したのは初めてでした。

神さまか仏さまかそれとも先祖のいたずらか。それとも嫌がらせか。

10年かけてようやく心が乱れることもなく、気にするのは体の不調くらいという平安を手に入れることができたとたんにこれです。

家に帰ってからも頭痛がひどくて早々に寝ました。

 

翌朝もまだ頭は痛かった。

でも姉の言葉に何時間も泣き続けた頃と違い、泣きそうにはなったけど涙は流さなかった。ずっとイライラして気分が悪かったけど、パニックは起こしていない。

息は普通にできた。間違いなく精神的に強くなったと感じました。

 

あとは墓じまい。

いっそのこと母が存命なの気にしないでさっさとお寺に相談してしまおうか。

そうすれば、あの人たちと完全に縁が切れるだろう。

来年、姉がお墓参りに行ったらお墓がなくなっていた、というシチュエーションもなかなかいいかもしれない、と思い始めています。

年金支払いの通知書が届きました

10月まで年金もらえないのか、とがっかりしておりましたが、先のお手紙から1か月もたっていないのに、年金機構さんがさくさくお仕事をしてくれたようで、ありがたいことに8月に年金振り込みますよ~と通知書が届きました。

 

初回は税金が引かれず満額振り込まれるみたいです。

今後の手取りがわからないのはちょっと不安ですが、20%くらい減ると覚悟しておこうと思っています。

 

50代になって自殺願望が消えた後、「せめて年金もらえるまでは生きていたいなあ」とばくぜんと思っていました。

母から離れてから自分の時間が動き始めていろいろあったけど、年金もらえる年にたどり着いたことはひとつの節目にきたなあと感じました。

と同時に、自由に動けるタイムリミットも近いのだと改めて思いました。

 

せめて「老後の生活には、悔いがなかったわ」と笑って言いたいです。

年金給付が申請から4か月もあとなんて、聞いてない(泣)

年金の申請をして2か月が経ちました。

年金は偶数月にしか給付されないから8月からかなあ、なんて漠然と考えていたところに、年金機構から何やら案内状が届きました。

てっきり給付金額のお知らせだと思って開けたら、半分正解半分不正解。

 

国民年金の決定通知書ではあったのですが、ここから税金が引かれるため手取り金額がわかるものではなく、しかも!この通知を受け取ってから「おおむね50日程度かかる」とのこと。

おまけに、ほかの年金もらうとか給付調整ある人は、もっとかかるとしれっと書いてあるではありませんか。

 

なにそれ、年金給付の解説本とか動画とかで見た記憶ないんですけど。

ようするにあと2か月弱待たないと給付されないってお知らせでした(T_T)

でもね、年金って偶数月の15日給付だから、私の場合は10月が給付開始ということでしょうか。それって申請から5か月後です。

 

退職後すぐ年金生活に入ろうなんて考えてても退職金とか預貯金とか半年は暮らせるお金しっかり確保していないと無理ってことじゃないですか。

繰り上げとか繰り下げとかいっぱい解説あるんだから、注意事項として申請から給付まで4か月から半年かかるってことももっとPRしてほしかったです。

まあ、だからって申請時期を変える人もそんなにいないでしょうけど、生活設計には大事な情報だと思いました。

 

余談ですが、「おおむね」と「程度」「程」って同じような意味だから重ねて使うものではないと習った記憶があります。

どっちか一方だけにしないといけないのではないかと思うのですが、国の文書でもこんなことあるんだね~