毒母育ちの私が家族のしがらみを棄てたあと

母に結婚生活を奪われても、文句ひとつ言わず母の面倒を見ることが自分に課せられた生まれてきた意味、と信じ人生すべてあきらめて生きてきました。自分の人生、自分のために生きてよかったのだと気づいてからの日々を綴っています。

姉の言い分

 正月に姉と2年ぶりに顔を合わせてから、1か月以上が過ぎた。まだ、気分は落ち込んだままだ。

 

 2年前、「そんなにしんどいなら母の面倒は私が見る」と言ってくれた言葉を信じた私がばかだった。結局のところ、家を改修したり買い替えたりする金はないから母を引き取ることなどできない。最後には「あんたが幾らか出してくれるの」で終わり。

 

 子どもの頃から我慢をして来たと、母から「生まれることを誰からも歓迎されていなかった」と聞かされていたことがどれだけ負い目だったかを話しても、「そんなことを言われて育った子どもはたくさんいる」と切り捨てられた。

 

 姉は強い。姉の強さがあれば、たぶんそんなことを聞かされたとしても「ああそう」と笑って聞き流せるのだろう。勝手に生んだんだろうと言い返せるのかもしれない。私にはそんな発想もなかった。

 

 「子どもの頃にあんたはどれだけ甘やかされていた」と姉は私を責めた。

 私は、甘やかされていたのだろうか。確かに父は私に優しかった。厳しくしつけられたけれど、いつでも私は父に愛されていること、守ってくれることを信じていた。しかし、姉に甘えた記憶はなかった。母には?小学校に上がってからの記憶の中に、母に甘えた記憶はなかった。

 

 大学時代に父が死んでから、私は自分の生活費を自分で稼いできた。母からは一銭も仕送りをしてもらわなかった。それが当然と思っていたから、学費を出してくれただけでも感謝していた。

 ところが姉の前では仕送りをしていたと主張した。郵便局で振り込みに戸惑ったとただ、そのお金が私の手元に届かなかっただけだったと。仕送りをする気があったのなら、帰省して大学に戻る際など直接生活費をくれるはずなのにそんなことは一度もなかった。いや、生活費が足りているかどうかとすら、聞かれた記憶などなかった。

父が死んで、姉は給料を全額母に生活費として渡していたのだから、私の生活費など出せるはずがないことはちょっと考えればわかるはずなのに、私の反論は全く聞こうとしなかった。

 「振り込んだお金はどうなったの」

 「そのまま郵便局のものになった。聞きに行ったときにはもう期限が過ぎていて降ろせないと言われた」という母の言葉を信じた。

 そして私に向かって「学費を出してもらえただけでもよかったわね」と微笑んで言った。

 

 何を言っても論点をずらされてしまった。すべては二人の都合のいいまま、元のまま。私が何を言っても結局は争いが起きるだけ。私さえ我慢すれば丸く収まる。それは何十年たっても変わらなかった。