毒母育ちの私が家族のしがらみを棄てたあと

母に結婚生活を奪われても、文句ひとつ言わず母の面倒を見ることが自分に課せられた生まれてきた意味、と信じ人生すべてあきらめて生きてきました。自分の人生、自分のために生きてよかったのだと気づいてからの日々を綴っています。

母のやり口

 連休にあれから初めて家に戻った。

姉と出くわしたことを思い出すと玄関を開ける気がしなくて、裏口から家に入った。茶の間のテーブルに私が赤ちゃんだった時の写真があった。昔見せてもらった写真館で撮った私の唯一の赤ん坊だった時の写真だ。私に持っていけということか。ほかにも数葉重ねてあった。手に取ると、私の結婚式の写真と結納の日の写真。芸能人の婚約会見のように誇らしげに婚約指輪を見せている私。無邪気にこれからバラ色の人生が始まると信じていた頃の自分の姿を見て声をあげて泣いた。

しばらくして私が家を出てからはじめて、母が部屋から出てきた。

「どうしたの」

まるで5歳児に話しかけるような優しい声で聞いてきた。母が選択肢を与えずに私の気持ちを聞いてきたのは何十年ぶりだろう。思い出せない。それより何を思って母は、このタイミングでこんな写真を私に渡そうとしたのだろう。

「この写真を今見せる」鳴き声で一言だけ絞り出した。

「いらないなら片付けるわ」

もう嫌だ。人の傷口に塩を塗っていることに全く気づいていないのか。この人はどれだけ娘を追い詰めれば気がつくのだろう。いや、一生気づくことなどないのだろう。

 

人生は自分のためにあるのだと気づかなかった私がばかなのだ。自分に正直に生きなかった報いなのだ。

母と姉の考え方、生き方、価値観が私とは根本的に違うのだ。どれだけ言っても伝わりようがない。もしかしたら物心つく前に私はそれを学んでいたのだろうか。だから幼いときから家族に対し、聞かれない限り自分の気持ちを言わないようになったのだろうか。

父だけは例外。父に対して私は、心のままに振舞っていた。父にだけは安心していつでも話ができた。父に話しかけるのに気を遣ったことなどなかった。

父がいた頃、母にはほとんど発言権はなかった。何か口を挟もうとしても「お前は黙っていろ」と父に一括されて母は口をつぐんでいた。

父が私を守ってくれていたのだと改めて思う。