毒母育ちの私が家族のしがらみを棄てたあと

母に結婚生活を奪われても、文句ひとつ言わず母の面倒を見ることが自分に課せられた生まれてきた意味、と信じ人生すべてあきらめて生きてきました。自分の人生、自分のために生きてよかったのだと気づいてからの日々を綴っています。

しつこくPart3

結婚前に関係を持たなかったのは、はっきり誘われたことがないのが一番の理由かな。せめて、旅行にでも誘ってくれればきっかけになったかもしれないけど。

私が学生だった時は一応遠距離恋愛だったんだから、大学のあった京都に彼が遊びに来るとかすればいいきっかけになったんだろうけど。

 

私が帰省したときしか会わないのって、今考えると変ですね。

いとこに「それで付き合っていると言えるのか」と言われても、恋愛におけるスキルが低すぎて、当時は不思議にも思いませんでしたけど、彼が私を愛してくれていると信じていました。

 

その頃は、自分がセックスに対し嫌悪感や罪悪感を抱いているなんて気づきもしなかったから、彼と結ばれることを夢見ていたのです。乙女チックな夢でしたけど。

 

男性諸氏よ、覚えておいてください。

ラブホテルでロストバージンしたいなんて乙女は思わないのです。

処女と(素人)童貞だったから結婚生活始められなかったのかな?Part2

妻と話をしない。男ってそんなものだという理屈が通るなら

初めて経験するときは男にうまくリードしてもらいたいと、処女が望むのも普通ではないでしょうか。怖くて逃げたり、いやと言ったりするのもそう変なことでもないように思います。

子どもの頃、はじめてセックスシーンを目にしたのが『ベルサイユのばら』で、オスカルがアンドレに「今夜、あなたの妻に」と言いながらも土壇場で「こわい」と逃げ出して、アンドレが「こわくないから」とベッドに誘うシーンでした。

今でも鮮明に覚えているほど衝撃的でした。

男として育てられたオスカルは当然処女の設定だけど、それでも30過ぎの女がこんな乙女チックな反応するのかと。

オスカル一筋のはずのアンドレが初めてとは思えない態度でオスカルをリードしたから。

アンドレは誰かとそういうことを経験していたのだなと。

 

『ミミと州青シリーズ』のミミだって、新婚旅行で州青さんに迫られて逃げたし。

アンジェリク』の主人公アンジェリクなんて、恐怖が過ぎて吐いてしまったし。

初めての時に「やだ」って言ったって、関係持つのが嫌なわけではないとアンドレも州青さんもジョフレもみんな分かったのになんで夫は分からなかったのでしょうか。

セックスを拒否する妻に対してだって、『デスパレートな妻たち』のポールも「なぜ拒否するんだ」と妻に聞いたし、別の番組でも「何が嫌なんだ」と夫が妻に詰め寄るシーンを見たことがあります。ポールは「セックスに応じないなら離婚だ」と別の回で妻に迫っていたし。

はじめは「私は処女なのよ」と反論していた妻も執拗に迫るポールにとうとう応じた後は夢中になってたけど。

オスカルもミミもアンジェリクもみんな処女の設定で、怯えて一旦は拒否するけどちゃんと結ばれることができて、私ができなかった理由は?

やっぱりリードする男性が経験豊富か否か、ということが重要なポイントだったように思えてなりません。

それに、自分自身を嫌なのではない、と相手を信じていたから。

フィクションだけどいろいろ目にして、ちょっとだけ知識も増えて結婚当時全くわからなかったことが少しだけ見えてきました。

夫が私に「関係を持ちたい」と一度も言わず、何が嫌かも聞こうとせず、夫の権利を行使するのを当然のことだと主張することもなかったのは、自分が愛されているという自信がなかったから、私が夫に身も心も捧げるつもりだと信じてもらえなかったから。もしかしたら私が処女だったことさえ彼は思い至らなかったのではないかと考えるようになりました。

やっぱり私たちがセックスレスだった一番の理由は、夫が関係を持ちたいと妻に言わなかったことだと思います。

結論:結婚してはじめて関係持つなら、どちらかが経験豊富でないとうまくいかない。

処女と(素人)童貞だったから結婚生活始められなかったのかな?

話しかけてもまともに話をしない。何か気に障ることがあるのかと聞いても無言。

したいことがあったら、言ってほしいと頼んでも、何も言わない、何もしない。

私は、夫が私を妻として扱わないことをずっと不思議に感じていました。

 

だから、私が夫との関係を拒否していると夫が周囲に言っていることを知った時、私は心の中で叫んでいました。

 

「強制されていやいや結婚したわけじゃない。4年も付き合って結婚した相手と関係持つのを嫌なわけがない。関係を持てない理由を聞いてほしい。」

こんな理屈は変なのでしょうか?

 

新婚生活1日目。夫より先にウキウキしながら起きたものの、母が朝食の準備とか全部やってくれていて、何もできずただうろうろするだけ。

夫を玄関で見送るときにも母の視線を感じキス一つできませんでした。

夫がいなくなるや母から

「邪魔だから、(夫と一緒に)起きてくるな」と言われ、翌日から夫とともに起きることをやめました。夫が出かけたあとでないと起きてはいけないと思い込んでいました。

 

「なぜ、夫と朝食をともにしてはいけないの」

「出勤する夫を見送りたい」

そんな言葉は封印し黙って母に従うことしかできませんでした。

 

母に言われたことを夫に伝えるなんて思いつきもしなかった。

夫は当時私に何も言いませんでしたが、今考えれば夫の目には、一緒に起きもせず、全部母親まかせにするひどい女、と映っていたのだと思います。

気づくの遅すぎますね。

 

お母さんに言われたから、と何もかも母親優先では、夫の気持ちが離れていくのは当然でした。

ま、夫も母優先で私のこと全く気にかけてなかったように感じましたけど。

 

妻と1日5分も過ごさずにその何十倍もの時間を妻の母と過ごす夫をどう受け止めればよかったのでしょう。二人してお互いを見ずに、母の方を向いていたんだと思います。

 

そんな状態で、結婚生活を始められるわけがありません。

そんなこともわからず私はずっとあがいていました。

 

 

 

 

夏休みといえば…

今日から夏休み?制度上は明日から学校は夏休みに入るのかな?

学校は土曜日が休みになったし、海の日もできたし、カレンダーによって違うみたいでよくわかりません。

 

夏休みになると混雑とうるさいのが苦手なので、子供が増える病院とか美術館とか、なるべく行くのを避けようと予定を組みます。

 

私の子どもの頃は、全校登校日とか学年登校日とか夏休み中に何度か登校日が設けられていましたが、今はどうなんでしょうか。

 

私が住む地域の登校日は、8月6日か9日、お盆前の12日とか13日、そしてもう1日ランダムに設定されていたように記憶しています。

6日や9日は原爆が落とされた日ですから、どちらかが登校日というのは理解できたのですが、なんでそのすぐ後にまた登校日があるのか子どもの頃不思議でした。

 

そんなことなどすっかり忘れてた頃、理由がわかりました。

それは、お盆前の全校登校日に夫が給料をもらって帰ってきたときのこと。

 

30年以上前のことですから、当時はまだ現金支給でした。

お盆で何かと物入りだろうからと、毎年8月だけは学校の先生の給料は早めに支給されることになっていたそうです。(通常は20日頃)

 

昭和の時代、学校の先生も子どもと一緒に夏休み。

夫の学校では、1週間に1度の当番日しか出勤する必要がありませんでした。

先生に給料を渡すために登校日を設定していたとの夫の言葉にショックを受けました。

ようするに子供たちは口実に使われていたわけです。

 

思い出すとこれが1月に家を出ていった夫と、普通に話をした最後の会話かもしれません。

 

現在は、教師は学校が休みでも毎日出勤しなければいけないし、給料は銀行振込だし早めに支給されることもなくなったのでしょうね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

成田離婚だったのかな?

成田離婚:新婚旅行で相手を見誤っていたことを知り成田空港に帰ってすぐ離婚してしまうこと。90年代の流行語でこれをテーマにしたドラマもできた

 

 20年以上連絡も取っていなかったいとこに会いました。

昔話に花が咲きました。というより、現在の環境があまりにも違うからほかに共通して話すことがなかったのです。

 

 一人で暮らし始めた訳も話しました。母との葛藤の、一番の原因が私の結婚離婚に関することだということも。

 いとこは離婚について、私が初夜で夫を突き飛ばしそのまま成田離婚したのだと母から聞いていたそうです。

 母が夫を引き留めていたと言う、母の言葉を信じてうたがっていませんでした。

 

 だから、逆なのだと、母が夫を独占していたから夫婦生活を築くことができなかったのだとは、なかなか信じてもらえませんでした。

 

 その後、何度も考えました。

 もしかしたら、夫だった人にとっては母の言う通り成田離婚だったのかもしれません。

 新婚旅行で2日目から私に触れようともしなかったのも、旅行後まともに私と過ごそうともしなかったのも私との結婚生活を営む気がそがれてしまっていたのかもしれません。

 

 私は無言で突然のしかかってきた夫が怖くて、「いや」と言ってしまいましたが突き飛ばしたりはしていません。そもそも恐怖で動けなかったし。

 でも、彼にしたら私が夫婦になるのを拒絶したとしか思えなかったんでしょうね。

 

 私が結婚できた幸せに酔っていた頃、彼は何を考えていたのでしょう。

 話しかけてもまともに会話ができない、私にそばに寄ろうともしないと私が気づいた時には、彼に見限られていたのでしょうか。

母の呪縛から逃れられた?

母の存在を意識せずに暮らすことがこれほど楽なことだとは、想像もできませんでした。

母の存在がどれほど強かったのか、改めて思い知らされています。

 

頭のもやが消えてくると、過去の出来事を別の視線から考えることができるようにもなってきました。

 

これまでの、自分の言動がいかに異常であったのかもよくわかってきました。

それと周りが私をどう思っていたのかもちょっとだけ見えてきた気がします。

 

母の言うことを全部うのみにして、嫌なことを嫌と言えず、「どうして」と聞くこともできなかった。

母親に言われたことを、誰にも相談できなかった。

今考えれば、「おかしい」と思うことばかりです。

 

自分で考えることができなくなっていたことに気づくことができたら、これまでのこと別の側面から見えてきました。

少しずつ、そんなことを書いていきます。

皆さんからご意見、いただけるとありがたいです。

父に言いたいこと

幼いころからずっと、「私が我慢すれば争いは起こらない」と信じていました。

 

きっかけは、私が祖母に文句を言ったこと。怒った祖母が「お前の育て方が悪い」と母をなじり、私は母をかばい祖母をもっと怒らせた。

「私を思うなら、おばあちゃんに逆らわないで」と泣きながら私に言った母の姿が今でも忘れられません。

 

聞かれない限り家族に対し、自分の気持ちを言葉にすることを我慢することが正しいことだと思い込んで生きてきました。

家族に対しては、言いたいこと、自分がやりたいこと、やりたくないこと、不満に思うこと、何一つ言えず、自分で勝手に枠を決め、怒られないように、非難されないようにひっそりとその中で泳いでいたように思います。

 

家族の顔色をうかがって話したり、行動したりしていた。いっぱい我慢もしていたけれど、父が私の気持ちやそのときどきの言動の事情を聴いてくれていたから、私を愛してくれていること、何があっても守ってくれることを信じていられたから、自分を見失わずにすんでいたのかもしれません。

 

父が生きた年月を超えた今でも、私は父の子どもに生まれてよかったと思います。

 

父がいなくなって、誰も本当の私を見てくれていないことに私は気づかず、ただ、母の要求に答えることが正しいことと思い込んでいました。

どんなに意に染まなくても「私が我慢すればいいことだ」と。

でも、娘に犠牲を強いていることに全く気付かない親ってどうなんでしょうか。

 

ねえ、お父さん。

「お父さんの人生でたった一つ失敗したのは母と結婚したことだったね」と言ったら怒りますか?