毒母育ちの私が家族のしがらみを棄てたあと

母に結婚生活を奪われても、文句ひとつ言わず母の面倒を見ることが自分に課せられた生まれてきた意味、と信じ人生すべてあきらめて生きてきました。自分の人生、自分のために生きてよかったのだと気づいてからの日々を綴っています。

洗脳が解けた…気がする

昨年の正月に母と姉とようやく本音で話して以来、二人に会っていない。

もちろん、電話もなし。着信拒否してる。

たぶん、二人ともかけてくることもないだろうけど。

私の住んでいるところも聞かないし、言わない。

 

一人になって感じたこと。

頭の霧が晴れていく感じ。少しずつ重荷が取れていく感じ。ようやく避難場所を見つけた感じ。

これまでどれだけ緊張して暮らしていたのかがよく分かった。

 

本を出していろんな人の意見を聞いて、いろんな視点から過去を振り返ることができた。

 

ずっと母に認められたくて、愛されたくて頑張っていた。

父に愛されたいと思ったことがないことにも気づいたけど、それは父が私をいつくしんでくれていることを知っていたから、努力する必要がなかったからなんだと改めて思った。

 

最近、誰の気持ちも忖度せずに行動していることに気づいた。

自分の気持ちを素直に話し、行動するととても楽です。

ようやくいろんな意味で洗脳が解けた気がしています。

母の呪縛、影響力、幼いころからずっと母の言葉を信じていた自分がとても愚かに見えてきました。

 

毒親診断サイトが増えていた

スマホとPCでサイトの見え方がずいぶん違うとの記事を見つけ、自分のサイトにアクセスしてみた。

………

記事しかないんですね。

まあ、写真とかあんまり入れてないし、、、デザイン性高くないし、、、

綺麗に見せる方法あるんだろうけど、、、

おすすめの順番ってどうやって決めているんだろう?

 

などと考えながらgoogleの検索結果見ていたら、いつの間にかネット上に「毒親診断」サイトが増えていた。

3年前、もしかして私の母は毒親?と疑ったときはこんなに見つかりませんでしたよ。

 

前は毒親度何%とか、ストレス度何%とか診断するサイトが多かったように思うのだけど、支援サイトが増えたのかな。

で、久しぶりに毒親診断してみました。

 

結果はといえば。

 医者か相談窓口へ行きましょう!このサイトに相談してもいいですよ。

だって。

 

どこへ行こうと過去は消せないし、やり直すこともできないしね。

どれだけ自分が愚かだったかは嫌というほど分かっているし。

今更、相談したって私が救われることはないけど、もしこれ読んでくれている人の中に、家族で悩んでいた人がいたら一言だけ言わせてください。

 

家族は自分の都合で勝手なこと言うけど、自分の人生を手放してはいけません。誰もあなたの人生に責任なんか取ってくれません。

勝手なこと言う人は、何十年もたったら強制したこと自体を忘れています。

迷ったら頭で考えるのではなく、心の声に従ってください。それが将来、後悔を引きずらないための一番の選択です。

空っぽな自分を自覚して

これまでに私はどれだけの本を読んできたんだろう。

おとぎ話、昔話に始まって今日までの間、千や二千ではきかない。

 

子どもの時は1日1冊は読んでいた。高校生で手に取った新潮社の古典全集は、1か月かけて1冊しか読めなかったけど、勤めてからは月10~15冊、かけるところの30年、単純に計算しても5,6千冊にはなっていそうだ。

それだけ読んで何を学んできたんだろう。自分の頭に何が残っているかと問えば、むなしくなってくる。

特に勤めてからの読書は、ただ時間を潰すだけ、現実逃避するためだけに文字を追いかけていただけだったように思えてきた。

一人の時間に何をしていいかわからないから本を開く。それ以外にすることが思いつかなかっただけ。ストーリーも本で得た知識も記憶から消えている。

 

空っぽの自分がいるだけ。

 

何もかも捨てて、失くして、そぎ落として、最後に残っているのは夫だった人への思いだけとは。

 

彼との思い出にまだしがみついている自分が情けなくもあり、私の自我の最後のよりどころ、心の支えでもある。

結局、彼への思いだけが本物だったと心にしまって、人生を終えるんだろうな。

母のメイ言(20代編)

父の葬儀の日、家に帰って母がつぶやいた言葉。

「やっぱり病院で出会った人はダメね」

「(父の棺に泣きながら取りすがる伯母の姿を見て)伯母に負けたと思った。血の方が強いわ。」というのが母の感想です。

 

新婚旅行から帰って出勤1日目に夫を見送った後、

「邪魔だから、起きてくるな」と母に言われました。

翌日から私はベッドの中で夫を見送り、朝の夫の世話はすべて母がやりました。

 

夫が部屋で初めてちょっと私に触れようとしたことがあって、その翌朝母に

「昨日の夜、いったい何をしていたの。うるさくて眠れなかった」

と叱られました。恥ずかしくて逃げ出しました。

物音を立てていたのなんてものの5分もなかったと思うんですけどね。

この母の言葉はものすごいプレッシャーになりました。寝室の物音が全部母に聞こえているということが分かったのも嫌だったし、寝室で物音をたてたら母に怒られる、音を立ててはいけないと思い込んでしまいました。その後私は夫が寝入るまでベッドに入ることができなくなりました。

 

なんかいっぱいありすぎて思い出すのも嫌になってきた。

普通の親はこんなこと言わないって思っていいですよね。

母のメイ言(10代編)

母から言われた言葉をもう一度思い出して、考えてみた。 

 

「お前が生まれることを周りは誰も喜ばなかった。堕ろせって言われたけど、お父さんが産めって言ってくれたから産んだ」

 

10歳くらいの時に繰り返し母から言われた言葉です。私の存在全否定されたこの言葉にずっと呪縛されていました。

 

「もう(お菓子なんか)作るのやめたら。お菓子なんか買ってくればいい。」

高校生でお菓子作りに興味を持って、初ゼリー作りに挑戦した時の言葉です。

寒天の量を間違えて、確かにできはひどかったんですけどね。

もちろん、その後お菓子を作ったことはありません。

 

「こんなもの、家にいくらでもあるわ。無駄なことに金を使うな」

修学旅行で買ってきたお土産を見せた時の言葉です。

新婚旅行をはじめとして、その後の旅行で母に土産を買ったことはありません。

 

「コーヒーカップなんか家にいくらでもある。こんな高いもの買って、無駄遣いするな」

姉にちょっとしゃれたコーヒーカップを誕生日プレゼントとしてあげた時の言葉。

姉がこのカップを使うのを見たことは一度もありません。

 

「お金を渡してあるのだから、必要なものがあれば買えばいい。なんでわざわざ高い送料払って送らなくちゃいけないの?」

大学の寮で周りの人たちに次々と親元から食べ物が送られていた、と帰省した時に話した際の母の感想。

 

「こんな汚いからだを見せたら百年の恋も冷めるわ」

学生時代、帰省すると母は必ずお風呂で背中を洗ってくれた。そのたびに言われた言葉だ。

 

否定されてばかりだったのかな。でも一度も口答えしなかった。できなかったんじゃなくて、反論すること、反抗することを思いつかなかっただけ。

彼氏と別れさせられていた時でさえ、文句ひとつ言えなかった。黙って受け入れた。

 

今とは時代が違うから、ほめて伸ばす教育なんてほぼなかったし、親は子どもを叱るのが仕事みたいな時代だったとは思うけど、母の言動は普通の親の範疇に入るのでしょうか。私の受け止め方がおかしかったのでしょうか。

 

 

 

成人式の名簿に載らなかったことをまだ引きずっている

今年の成人式は、全国的にいいお天気の中行われているらしい。

もっとも3連休になってから、昨日の日曜日に式典を行う自治体の方が断然多いみたいだ。親元を離れている人たちにとっては、その方が参加しやすいのだから、当然といえば当然のことだろう。

 

3割の成人が式には参加しないと回答しているとネットニュースが掲載していた。

私は自分で参加、不参加を決められるだけいいな、と思ってしまう。

自分で選択できたことを羨ましく思う。

 

私には参加する場所がなかった。父の死の瀬戸際で参加できる状況でもなかったけれど、欠席することさえ自分では決められなかった。

 

当時大学生だった私は、住民票を大学のある京都に移していた。

京都の成人式は申込制で、地元生から教えてもらった時にはとうに申込期限が過ぎていた。

そして、冬休みに帰省したら父は病床に臥していた。

 

住民票がなくても地元自治体では申し出れば参加できたがその調査が行われたのは、私の帰省のずいぶん前だったそうだ。

母は、娘の成人式を申し込むなんてことは思いつかなかったらしい。

姉の成人式は家族総出で大騒ぎしていたのに。

 

大したものでもないだろうけれど、記念品さえもらえなかった成人式。

 

「どうして申し込んでくれなかったの?」との問いに

「あんたは出席するつもりがないんだと思っていたわ」と答えた母。

 

私の気持ちを決め付け、自分を正当化する母の態度は成人式から始まったんではなかっただろうか。

お正月と言ったって

新年あけましておめでとうございます。

 

と言ったって、私がこの言葉を口にするのは多分、4日に出勤してから。

家族を捨てた私にとって正月なんかもうずっと関係ない。

 

父が死んだあと母はおせち料理を作ることもなく雑煮が唯一、正月らしい食事だった。

親戚も来ない。姉夫婦も来ない。

正月らしさを感じたのは、年賀状とテレビ番組くらいだった。

 

離婚すること、夫が家を出ていくことが決まった後のお正月、私は母に急き立てられてお寺の元日供養に立ち会うため、早々に家を出た。

帰ってきたとき夫は家にいなかった。実家に戻っていたのかと思っていたが後から母にサウナに行っていたと聞いた。

結婚したら二人で初めて迎えるお正月は、おせち料理を作って着物を着て初詣に行って…

そんな夢を持っていた。

 

結婚して子供を産んで、育てて、一生彼のそばにいたいと思っていたのに何一つかなわなかった。いや、自分で夢をあきらめてしまったことを今年もかみしめています。

 

昭和に生まれ昭和を生きていた時は、大正時代、明治時代に生まれた人がすごく年上に見えた。

平成になっても元号が変わったとしか思っていなかった。年齢を感じ始めたのは、平成生まれの小学生、中学生を目にするようになってから。

新しい元号で生まれる子どもたちには、昭和生まれがどんなふうに見えるのかな。