毒母育ちの私が家族のしがらみを棄てたあと

母に結婚生活を奪われても、文句ひとつ言わず母の面倒を見ることが自分に課せられた生まれてきた意味、と信じ人生すべてあきらめて生きてきました。自分の人生、自分のために生きてよかったのだと気づいてからの日々を綴っています。

幸せの定義を考えてみた

 

私の本を読んでくださった方からお葉書をいただきました。

「幸せになってください」と書かれていて、思わずウルッときました。

 

家族から言われたことのない言葉、これまで周りの人から言われたことがない言葉を

本を読んだ人たちからかけられました。

「幸せになって」

 

葉書を読んで、幸せになるとはどういうことだろうとじっくり考えてみました。

 

私の幸せは夫(元)とともに人生を送ることとずっと思っていたんだなあ、と改めて認識してしまいました。

私の夢は、彼の子を産んで、一緒に育てて、いつも彼に笑っていてもらうことでした。

彼がそばにいるだけで私は幸せでした。

 

離婚後、母からこれから一生をかけて夫の先祖に謝っていけ、幸せになる資格などない、と言われたことをそのまま信じ込んでいました。

 

今の私は、自分が幸せになるというイメージが持てないでいます。

 

誰からも愛されない、必要とされない私がもう一度幸せを感じることなどできるのでしょうか。

 

美味しいものを食べて「ああ、幸せ」と言える人がうらやましかった。

私は「美味しい」とは感じてもそこに幸せは感じないから。

美味しいものは彼と一緒に食べたいし、食べさせてあげたい、と思うから。

そうすると彼がそばにいない寂しさ、悲しみを感じるから。

多分、何を食べるかよりも誰と食べるかで幸せ度を感じていたのでしょうね。

 

幸せの定義は「心が満ち足りていること」だそうです。

「足るを知る」こと、安心感があることと私は捉えます。

 

五体が不自由なく動く。とりあえず健康といえる。

好きなものを食べ、自由にどこへでも行ける。自分で自分のことを決められる。

母から逃れることができただけでも、幸せと思わなくてはいけないのかもしれません。