毒母育ちの私が家族のしがらみを棄てたあと

母に結婚生活を奪われても、文句ひとつ言わず母の面倒を見ることが自分に課せられた生まれてきた意味、と信じ人生すべてあきらめて生きてきました。自分の人生、自分のために生きてよかったのだと気づいてからの日々を綴っています。

私が訴えたかったこと、言うべきだったこと

離婚報告を媒酌人にしに行ったとき、夫が事情を延々話した後、突然私に

「抱かれたいと思ったことはないのか」

と聞かれた時に、夫の言葉を否定することになること、母の前で夫婦関係を話すことがためらわれて返事にとても困りました。

本当に言いたかったことを言えなかったこと、返事を間違えたことをずっと後悔しています。

本当はどう答えたかったのか、何を言うべきだったのかと繰り返し考えていました。

 

何度も何度も、あの時こういえばよかった、ああ言えればよかったと、言いたかったことを頭の中で考え続けてきました。

 

私は先生の質問の意味を間違えて受け取ってしまいました。言葉、そのままの意味に。

でも、先生が聞きたかったのは、私が夫と夫婦関係を持つ気があったかどうかだったんですね。その場で、そんなことさえわからないくらい自分の精神が病んでいたのだと今は分かります。

 

関係を持つことが嫌な人と何年も付き合うはずがないこと、ましてや結婚などするはずがないこと。結婚生活を送るために話し合いたかったこと、二人きりで過ごしたかったこと。

最後まで夫と、二人きりで話し合う機会がなかったのだから、夫に私の思いを伝える機会はこの離婚報告の時しかなかったのだから。

 

せっかく先生が私に話す機会を与えてくれたのに、夫の話を否定するようなことをいうことに躊躇して、結局嘘をついたわけではないけれど、事情を全く説明できなかったのは、母がその場にいたからでした。母には聞かれたくない、知られたくない、母の存在自体が私に強いプレッシャーを与えていたのだと一人になってひしひしと感じます。

 

母がいても言えたことはきっとこんな風です。

「抱かれたいというか、私は結婚したら旦那様の求めに応じてそういうことをするものだと思っていました。」

 

もし、母がその場にいなければ、その後こう続いたと思います。

「私はずっと私を妻として扱わないのが不思議で仕方がなかった。

お母さんとは二人で出かけるのに、どうして私とは二人で過ごそうとしないのか不思議で仕方がありませんでした。私は、せめて30分でも二人で過ごしたかった。スーパーでもいいから二人きりで出かけたかった。大好きな人が同じ家にいるのに、そばにいることができなくて、私はずっとさみしくて毎日のように泣いていました。

 

一度だけ、女の方から言ってはいけないとわかってはいましたが、そういうことをしたいときには、言ってくださいとお願いしたんです。でも何も言わないから、新しい学校で仕事が大変だから、そんな気分にならないのかなと思っていました。それでもいつかきっと妻にしてくれる日が来ると信じていました。

 

母が私たちの寝室を分けてからは、直接話をすることもできず何度も二人で話し合ってくれるよう、母に頼んでいました。

母の言いつけを守りながら、結婚生活を営むためにはどうしたらいいかを二人で話し合いたかった。

 

嫌な人と何年も付き合うはずがないし、まして結婚などするわけがありません。これからの人生を共に過ごしたかったから、彼の子どもを産みたいと思ったから結婚したんです。

 

でも、夫が私に興味を持たなかったのも当たり前だったんです。私が大それた夢を持ったのがいけないのです。妻と娘を同時にできないと三人で暮らし始めるまで気付かなかった。私がすべて悪いんです。」

 

これが、私が5年間考え続けてきたことの答えです。

 

泣くだけで何もできなかったあの頃の自分に文句を言っていいんだと言ってやりたい。

後悔しないためには、周りの人の思惑なんて気にしないで、自分の心に素直に行動するのが一番です。

こんな当たり前のことさえ、何度も本で読んでいても自分には当てはまらないとずっと思いこまされていた自分が情けない。