毒母育ちの私が家族のしがらみを棄てたあと

母に結婚生活を奪われても、文句ひとつ言わず母の面倒を見ることが自分に課せられた生まれてきた意味、と信じ人生すべてあきらめて生きてきました。自分の人生、自分のために生きてよかったのだと気づいてからの日々を綴っています。

人生の敗者だと改めて思った

大学時代の友人に再開した。職場の研修会案内で講師の名前を見てびっくり。懐かしさと同時にどんな風に変わったのかだろうかと興味を持った。それに、私が一番輝いていた頃を知っている人は、今の私をどう見るだろう。

 

絶対に参加しなければいけない研修ではなかったが、好奇心に勝てなかった。

研修が始まる前に会釈をすると相手も覚えていたらしい。挨拶を返してきた。それからすぐ研修が始まり、公的に話す姿に違和感を持ち月日の流れを感じた。知らない人が話しているように思え、研修終了後私はそのまま会場を出た。

 

翌日、連絡があり食事に行くこととなった。30ン年ぶりにあった友人(だった人)。互いに当たり障りのない話、学生時代の思い出話、無難なことしか話さない。

 

「人生なんて最後にならないと、いい人生だったかどうかわからないじゃない」

そう言われたときに、私は人生の敗者だと改めて思った。泣きそうになるのを堪えて返した。

「そんな風に言えるのは、今の人生が充実しているからじゃない」

 

私の人生は、離婚した(させられた)時に終わっている。その後の、どの瞬間であってもいい人生だったと言える時はなかった。別れたことを後悔し続けた毎日。夢のすべてをあきらめた生活は人生なんて呼べないものだった。いつ死んでも、自分の人生に対するコメントは同じ。

 

「家族の犠牲となり、寂しい一生でした」

 

ネットで、西日本新聞がホームレスの方にインタビューした記事を読んだ時のことを思い出した。至極名言に思え、とても印象に残っていました。

 

「後悔の消し方、知ってるか」

「今が楽しいなら、後悔は後悔じゃなくなり、ただの思い出になる。逆に今が最悪なら、後悔はさらに大きくなる。後悔を消すには、今を良くするのが一番近道ってわけよ」

=2018/01/05付 西日本新聞朝刊=

https://www.nishinippon.co.jp/feature/life_topics/article/384385/

 

私は、元夫が私と別れた後、充実した人生を送っていると、自分の人生を後悔していないと信じています。

そして、彼の幸せのためには、私は身を引くしかなかったのだと。

その思いにしがみついて、私は自分の人生をずっと後悔し続けているのです。

どんどん後悔が大きくなるのは、どんどん私の人生が悲惨なものになっているからでしょうか。そもそも人生なんていえるものですらない日々ですが。

 

いつの日か思い出に変わる日が来るのでしょうか。